二つ月の神話 一(4)

 それは、よく晴れた春の日のことだった。

 雛鳥は、家の裏の山に登り、集落が一望できる場所で一人、山菜採りをしていた。

 しばらく無心で山菜を採っていたが、ふと気持ちが途切れ、雛鳥は空を見上げた。

 すると雲一つない空の上に、大きな蛇が飛んでいるのが目に映ったのだ。

 雛鳥は山菜を入れていた籠を置いて立ち上がると、その美しい蛇を、目で追いかけた。雛鳥は、そのまま空を見つめ続けた。

 一体どれほどの時をそうしていただろう。

「何をしているの、雛鳥」

 後ろから母の声が聞こえ、振り向く間もなく、雛鳥は母の腕の中に収められていた。

「中々家に戻って来ないから、心配したでしょう?」

 そう言って母は、雛鳥を抱き締めたまま、お互いの頬と頬を重ねた。

「空を飛ぶ蛇を見ていたのよ」

 雛鳥は、触れ合う頬のくすぐったさにクスクス笑って、母の腕の中で一つ二つばかり身を捩らせてから、答えた。

「蛇?」

 母は頬を離し、聞き返した。

「雛鳥、空には蛇なんていないわ。あなたももう九度目の春を迎える歳になったというのに。いつまでもそんなことを言うのは、止しなさい」

 母は、中々家に戻って来ずに心配をかけた雛鳥に対して、怒っていたのだろう。これまでは雛鳥が突拍子もないことを言っても、「あら、本当?」と笑って答えてくれていたのに、この時はそうではなかった。

 母に否定され、雛鳥は動揺した 。咄嗟に焦った気持ちを隠すように、大きな声で言った。

「でも、見えるもの!ほら、あそこ。とっても大きな蛇の色が見えるでしょう?」

 母にわかって貰おうと、雛鳥は母の腕の中から抜け出して、空に向かって両手を伸ばした。

 しかしすぐに、あっと声を上げると、雛鳥は伸ばした両の腕を、今度は興奮したように、激しく振り出した。

「見て、お母さん。蛇の色が落ちていく、落ちていく。広場に落ちていくわ!」

 雛鳥がそう言って、集落の広場を指差した直後だった。

 広場の中央、雛鳥が指差したまさにその場所に、一陣の風の渦が巻き起こったのだ。

 広場にいた数人の人々がそれに気付き、口々に騒ぎ出すその間にも、風の渦はみるみる膨らんで大きくなり、やがて騒ぎを聞き付け、集落にいた人々全員が広場の周りに集まる頃には、天を支える巨大な柱のように聳え立ち、激しく吹き荒れていた。

 広場の端に積まれていた葦や木の枝、それらを覆っていた蓙、干されていた布や衣等が土埃と共に大渦に巻き上げられ、空中を巡った。

 渦に巻き込まれた一枚の白い衣が、空を飛ぶ白い鳥のようにくるくると舞い踊って、やがて渦から外れ、遠く山の向こうへと飛ばされていく様子を、雛鳥は見ていた。

「大旋風(おおつむじ)だ!」

「神の風が現れたぞ!」

 人々のそんな声が、辺りに響いていた。

 しばらくすると風の渦は、現れた時と同じように突然に、広場から姿を消した。

 風の渦が消えた後も、人々のざわめきは収まらなかったが、やがて集落で一番の年寄りの大ばあ様が、皆の前に進み出て、地面に伏し、風の渦のあった辺りに向かって祈りを捧げ始めると、一人、また一人とそれに続いて地面に伏して、祈りを捧げ出した。

 裏山でその様子を見下ろしていた雛鳥と母だけが、地面に伏さず、立ち尽くしていた。

 母は、再び雛鳥を腕の中に捕まえ、その体を閉じ込めると、聞いた。

「雛鳥。あなたはあの神の風が現れることが、わかっていたの?」

 雛鳥は首を巡らせ、母の顔を窺うように覗き見ながら、言った。

「だって、言ったでしょう?大きな蛇の色が、空から広場に落ちていったのよ。蛇が広場で踊って、そしてまた身を翻して空に帰っていったのを、お母さんも見ていたでしょう?」

***

 曇る土地では強い風のことを、神の風、と呼んでいた。

 雛鳥の父は、神の風に煽られて、高い崖から落ちて死んだのだという。

 だからだろうか。雛鳥の母は、雛鳥が話した雛鳥にしか見えない蛇の話を、とても嫌がった。

 母は、それから頑なに、それは見えないものだと雛鳥に言い聞かせた。見えないはずのものだから、見えるわけがない。これから先、母にも、誰にも、そんな話をしてはいけない、と言った。

 母にそう言われてから雛鳥は、母の言い付けに従って、見えない蛇を見ないよう気を付けるようになり、再び空に蛇の色が見えても、見えないふりをした。

 やがて雛鳥が成長するにつれて、見えない蛇は、本当に雛鳥の目に、見えなくなった。