二つ月の神話 一(7)

 囲いの集落を出た雛鳥達は、何度か休憩を取りながらも歩き続け、日が傾く頃になってようやく山を越え、彼らの暮らす集落、月森の集落を挑む丘に辿り着いた。

 そのまま長老の蝦蟆は、月森の集落へと帰ってしまったので、雛鳥は長老の息子の蝌蚪と二人で、月森の集落から少し外れた場所にあるという、踊りの師の家へと向かったのだった。

 雛鳥の踊りの師となるのは、猿楽(ましら)という名の老婆なのだと、道中、蝌蚪は雛鳥に教えてくれていた。

「おーい、連れてきたぞ!」

 山と川との間に、最近つくられたばかりに見える新しい家と、それよりもずっと古く見える家が二つ、並んで建っていた。その内の古い方の家に向かって、蝌蚪は声を張り上げた。

 木々に隠れて見えないが、近くに滝があるらしく、空は晴れているのに、ザァザァという雨音に似た音が、辺りに絶え間なく響いていた。

 少しして、 家の中から背の高い痩せた老婆が現れた。

「猿楽だ」

 蝌蚪が雛鳥に耳打ちして告げた。

 雛鳥は、これから世話になる年上の女性に良い印象を持って貰おうと、軽く膝を曲げて頭を下げ、右手の平で自分の胸の前を掬ってそれを相手に差し出し、「雛鳥と申します。どうぞ私の心にお触れ下さい」と口上する、丁寧な挨拶を披露した。

 しかし猿楽は、雛鳥の挨拶に対してニコリとも応じず、そればかりか、雛鳥の差し出した右手を無遠慮に掴んでぐいと引き寄せ、品定めするように雛鳥の体のあちこちに触れ、更には、「この場で何度か跳び跳ねてみなさい」とまで命じた。

 それを見ていた蝌蚪は苦笑して、

「おいおい、この子は西の蛮族の子じゃないんだぞ。この曇る土地で生まれ育った、立派な作法を心得ている子じゃないか。もっとちゃんと接してあげたらどうだい」

 と言った。

「口出しは無用です」

 猿楽はにべもなくそう言った。

「踊り子をどう扱うかは、私が決めることですから」

 最初の出会いがそんな風だったので、雛鳥はこれからの生活に怖じ気付いたが、一緒に暮らし始めると、猿楽は大祭の踊り子である雛鳥のことを、決して粗末には扱わなかった。

 猿楽の暮らす古い家の隣の新しい家は、雛鳥の為にわざわざつくられた家だった。この家の囲炉には、落雷から取られたという特別な火種が入れられ、踊り子は一年間、この火で煮炊きされた食事のみを取り、天から降りた火を体に宿す習わしなのだという。

 雛鳥は食事を作る必要もなかった。月森の集落の人々が毎日、猿楽に食材と焚き木を届け、その食材を使って猿楽が、新しい家の囲炉で雛鳥の食事を作ってくれた。残った食材は、猿楽の暮らす古い家の囲炉で調理され、猿楽の食事となるのだった。

 家の中には寝台も用意されていて、雛鳥は生まれて初めて、大きな寝台を独占して眠る日々を送った。

「あなたは大祭の踊りを覚えることだけに集中しなさい」

 猿楽は雛鳥にそう言った。

 それにしても、たった一つの踊りを覚えるのに、何故一年も必要なのだろうか。実際に踊りの練習を始めるまで、雛鳥は不思議に思っていた。しかしすぐに思い直すことになった。

 大祭の踊りは、とてつもなく長く、とてつもなく複雑な踊りだった。

 それは、雛鳥がこれまで知るどんな踊りともまるで違っていて、恐ろしく不規則な動きからなり、全く予想出来ない激しい動作が延々と続くのだ。初めの内、雛鳥は正確に踊るどころか十分の一も踊る体力がなかった程だし、不自然な体の動きをして身体中が痛くなった。

 壺の口に、獣の皮を張った鼓を猿楽が叩き、その拍子に合わせて、雛鳥は間違えず正確に踊りを踊らなければいけなかった。

 それでもいくらか雛鳥の踊りが形になり始めた頃、猿楽は今度は雛鳥に重い石の棒を持たせ、それを教えられた通り正確に振りながら踊るように命じた。

「その石棒は剣(つるぎ)の代わりです。大祭の当日は、あなたは本物の剣を持って踊るのです」

 そう猿楽が言った。

「つるぎ?」

 雛鳥はそれまで、剣というものの存在を知らなかった。

「剣とは武器のこと。しかし弓や槍のような、獣を狩る為の武器とは違う。神々同士の決闘の為に生み出された、神聖な武器なのですよ」

 そして更に月日が過ぎ、ようやく体力がつき、何とか最後まで踊りきれた時。猿楽は雛鳥に教えてくれた。

「この踊りは、代々の踊り子が少しずつ付け足していって、こんなにも長くなった踊りなのですよ」

と。

「だから、あなたもこの踊りを最後まで踊りきったら、その後は自分の思うままに踊り続けなさい。でも、付け足す最初の動きは、右に足を踏み出す以外にしなくては駄目よ。前の踊り子は右に足を踏み出して、そこでつまづいて倒れ、踊りを終わらせてしまった。つまりそれは正しくなかったから、神がそこで踊りを止めさせたということなのですよ」

 毎日、朝起きて、食事をして、踊りの稽古をして、また食事をし、眠る。

 雛鳥は、母のことが恋しくなるだろうと思っていたが、踊りを覚えるのに夢中で、一年の間、母のことはほとんど思い出さなかった。

 そうして一つの冬と一つの春を越して、大祭の日がやって来た。

 巫女装束に身を包んだ雛鳥は、神輿に乗せられた。

「雛鳥、あなたの靴です」

 猿楽が、神輿の中の雛鳥に踊り子用の靴を渡した。履いてみると、その靴は雛鳥の足にぴったりと合った。

 揺れる神輿の御簾の隙間から、神輿を担ぐ男達の、袖を捲って晒された、赤く上気した腕が見えた。

 神の下に近づいているんだ。

 雛鳥は高揚感に包まれた。