二つ月の神話 二(20)

 雛鳥は、水面から顔を出した。
「雛鳥!」
 クス・シイは雛鳥を水から引き上げて、ゴホゴホと咳き込む雛鳥に手を貸した。
「こんなに澄んだ水なのに、飛び込んだ雛鳥の姿が全く見えなくなったからびっくりしたよ。それに何だか急に天気も悪くなってきたし…。とにかく、コダマの所に戻ろう」
 山の中を再び歩く内に、雨が降り出してきた。コダマが迎えに来てくれたのでその背に二人で乗った。
 辿り着いたのは崖の上から突き出した大岩の下の岩陰で、そこなら雨宿りできそうだった。
「神に会えたわ」
 今まで黙っていた雛鳥が、ふいにそう言った。
「それで…?無事だってことは戦ってはいないんだよね?何か話せた?例えば僕の名前のこととか…」
 クス・シイの言葉を無視して雛鳥は言った。
「神に会って、ようやくわかったの。私の役目が何だったかを」
 クス・シイが、はっとした顔で雛鳥を見た。
「曇る土地の民として、私が果たさなきゃいけない役目は神への復讐じゃなかった。遅すぎるけど、でも気が付いた以上は役目を果たさなきゃ」
「まさか曇る土地の人々の所へ戻るの?君を殺そうとしたー」
「あなたは私が生け贄だって知ってたの?」
 雛鳥の問いに、クス・シイはばつが悪そうに目をそらしたが、すぐに雛鳥の目を真っ直ぐ見て言った。
「うん、知ってたよ。だって君の着ている巫女装束。君が神じゃないのだとしたら、神に会いに行く者、つまり生け贄が着る服だ」
 そして怒った顔をして、
「凪だってすぐに気付いたはずさ。だからずっとヒヤヒヤしてたんだ。今までそうしてたように、凪が君を曇る土地の人々に売り渡すんじゃないかって心配だった」
 そう言った。
「…凪は、それは昔の話だと言っていたわ」
「昔の話なもんか。僕の兄さんも、姉さんも、そして弟も、両親だって、みんな渡りの民によって遠くへ売られて行ったんだ」
 クス・シイはそう言って、続けた。
「とにかく、渡りの民にも、曇る土地の人々にも、関わる必要はないよ。復讐は止めるんだろ?神はむしろ君を殺そうとした人達を、逆に殺してくれたってわかったんだから。復讐する理由なんてないもんな。ね、僕らなら、誰にも頼らなくても生きていけるさ。僕と、君と、コダマでさ」
「私は、曇る土地の民よ」
 雛鳥は言った。
「私は、渡りの民じゃないし、あなたやコダマの仲間でもない。曇る土地の、囲いの集落の人間なの。だから、曇る土地の人々が決めたのだったら、生け贄として役目を果たさなきゃいけない。果たさなきゃいけなかったのよ」
「馬鹿じゃないか?」
 クス・シイは言った。
「曇る土地の連中は君を仲間として見てなかった。だから君を生け贄にしようとしたんだろ。そんな連中を君は今でも仲間だって、そう思ってるって言うのかよ」
「あなたにはわからないわよ」
 雛鳥は言った。
「凪が言ってたわ。あなたは自分の両親を売った子だって」
 クス・シイは唇を一度グッと噛むと、言った。
「ああ、そうだよ。僕は自分の両親を売った。仕方がなかったのさ。僕の両親は、僕ら兄弟を売ろうとしてた。だから売られる前に僕が両親を売ったんだ。何がいけない?」
「私はあなたとは違う」
 雛鳥は言った。
「私はお母さんが好きだった。生まれ育った故郷が好きだった。故郷に伝わる神話や英雄譚が好きで、全部を誇りに思ってた。だからそれらが全て奪われた時、復讐を決めた。私という人間は、曇る土地の風土の中にあるの。それを失ったら私は私でなくなってしまう。私はあなたとは違う。自分の名前があって、誇りがあるの。あなたは両親が先に裏切ったから裏切ったのかもしれないけど、私は故郷に裏切られたとは思ってないわ。私が故郷を裏切ってしまったのよ。だから、もう裏切るわけにはいかない」
「そう」
 クス・シイは呟くように言った。
「確かに僕は自分の名前さえ自分でわからない奴だ。誇りなんてもの、わかるわけないさ」
「…さよなら」
 雛鳥は岩陰から出て、雨で煙る山の中へと歩いて行った。