二つ月の神話 三(6)

 雛鳥が夢から覚めると、大祭はもう始まっていた。
 洞窟の前の祭壇で、熊の生け贄が血を流して倒れていた。
 いや、熊ではなかった。それはクス・シイだった。
 大祭の戦士が、クス・シイの体を洞窟の中に投げ入れた。

 そのことに気が付いた時にはもう、雛鳥は、血の付いた祭壇の上に立たされていた。
 目の前の洞窟から、風の唸るような音が聞こえてきた。
 洞窟から出てきたのは、雛鳥にしか見ることの出来ない生き物、巨大な見えない龍の頭だった。
 見えない龍がクス・シイの体を飲み込んでいく。
「クス・シイ!」
 雛鳥が叫ぶと、見えない龍が雛鳥を見た。
 遠くから、鼓の音が聞こえてくる。
 見えない龍が雛鳥に向かって襲いかかってきた時、雛鳥は咄嗟に鼓の音に合わせて何度も練習した大祭の踊りを踊ったのだった。
 巨大な見えない龍の攻撃を、踊る雛鳥は交わしていく。まるで雛鳥は龍の攻撃が、予め分かっているかのようだった。
(見えない龍は、繰り返す生き物…)
 雛鳥は、踊りを踊りながら、猿楽が言っていたことを思い出していた。
「大祭の踊りは、代々の踊り子が少しずつ付け足していって、こんなにも長くなったのだ」
 と。
 雛鳥の目には、代々の踊り子の姿が見えるようだった。
 最初の踊り子は、右に跳んで、見えない龍の爪に貫かれて殺されたのだ。
 二番目の踊り子は、前に飛び出し、頭から見えない龍に食べられて死んだ。
 三番目の踊り子は、後ろに回り込まれて。四番目は。五番目は。
「生け贄じゃなかった」
 雛鳥は泣きそうになりながら呟いた。
「私は、私達は生け贄じゃない。踊り子じゃない。」
 戦士だったのだ。踊り子だと思われていた者達こそが、真の戦士だった。
 大祭とは、見えない巨大な龍との千年以上にも渡る、戦士達の戦いだった。
 いつの頃からか、元々の意味は忘れられ、ただ、伝統として続けられてきたものだった。
(でも、その伝統も今日で終わらせなければいけない)
 雛鳥は誓った。
 神様を殺そう、と。

二つ月の神話 三(5)

 クス・シイは大祭の舞台に立っていた。

 目の前に梟の羽の模様のような刺青を顔一面に施している男がいた。

 男は手に剣を持っていた。

 クス・シイは何の武器も渡されていない。

 クス・シイはその時になって漸く気が付いた。

 クス・シイは大祭の戦士としてここに立たされているのではない。

 生け贄の熊の代わりにここにいるのだと。

二つ月の神話 三(4)

 雛鳥は夢を見ていた。
 夢の中で空を飛び、雛鳥は再びあの神の前にいた。
「籠目も、あなたと同じ年の頃、よく夢の中で私に会いに来たわ」
 神は言った。
「籠目…」
 雛鳥は、よく知る人の顔を思い浮かべた。
「それは私の母の名よ」
 神は頷いた。
「あの嵐と洪水は、母が願ったことなの?」
 神は再び頷いた。
「私は私の片割れと争いを起こしてから、地上へ降りることはできないの。私の片割れは地上で暮らし、そして私は天上で暮らす、そう取り決めたから。だから籠目があなたを救ってと願った時、私には天上から嵐を起こすことしか出来なかったのよ」
「じゃあ、生け贄を求めている神はあなたではないの?」
「言ったでしょう。私は天上の神。地上に何かを求めたりはしないわ」
「じゃあ、一体誰の生け贄に私はなるの?」
「それはもうすぐ分かるでしょう?」

二つ月の神話 三(3)

 クス・シイは、曇る土地の中で最も影響力のある玉作りの集落の長、狢の前にいた。
「お願いだ。雛鳥を解放して欲しい。大祭なんてもう何年も行われなかったのに、今さら女の子を生け贄にまでして何の意味があるんだ」

「雛鳥は曇る土地の仲間じゃないのか?」

「私は犬を飼っている」

「犬を家族のように思っているが、もし本当の家族が飢饉で餓えて死ぬかもしれないとなれば、迷わず犬を殺して家族で食べるだろう。雛鳥は我々の仲間だが外側の仲間だ。犠牲になる順番は決まっている」
「お前はあの娘に惚れてでもいるのか?あの娘は既に神のものだ。諦めろ」
「だったら僕は雛鳥を嫁に貰う為に、神に決闘を申し込む」
 ああ、言ってしまった。もう取消せない。クス・シイは心の中でそう思った。
 

二つ月の神話 三(2)

 クス・シイは過去を振り返り、そして決めた。
 雛鳥を何とかして助けよう、と。
 クス・シイは迷ったが、覚悟を決めて渡りの民の野営地へ向かった。
 
「クス・シイが戻って来たぞ!」
 渡りの民は、今にも掴みかからんばかりの様子だったが、小波がそれを止めた。
「雛鳥が大変なんだ。凪に会わせて」
 クス・シイの言葉を聞いて、小波は頷き、先導した。
「凪、クス・シイが帰ってきたよ。すぐにでもお説教を始めたい所だろうけど、取り敢えずその前にこいつの話を聞いてやってよ」
 小波はそう言って、口を開きかけた凪を制した。凪は溜め息をついて頷き、クス・シイに話すよう目で促した。
「雛鳥が、生け贄になる為に曇る土地に戻った」
 クス・シイは簡潔にそう言った。
 凪は目を見開き、
「自分自身の意思でか?」
 と聞いた。
 クス・シイが頷くと、凪はフーッと息を吐き、
「そうか。そっちの道を選んだのか」
 と言った。
「お願いだ、雛鳥を助ける為に力を貸して欲しい。雛鳥が必要なんだろ?」
「しかし雛鳥は、自分で選んだんだろう?」
 凪は言った。
「とにかく、今のお前達は渡りの民からの評判が悪い。馬を逃がしてしまったのだからな。お前達は我が儘を通しすぎた。今さらお前達を助けようと渡りの民を説得したところで賛同は得られんだろうよ」

 

 

二つ月の神話 三(1)

 クス・シイの両親は、どちらも天涯孤独で、その為助けてくれる身内もおらず、お互いに会うまで一人で生きてきたのだという。
 二人はどちらも相手のことを自分の半身のように感じ、お互いのことを大切に思い、そしてお互い以外のことは、自分の子供達でさえ、どうでも良かった。
 クス・シイの兄弟はたくさんいたが、何人いたかはわからない。両親は子供達を世話しようとしなかったので、ほとんどの子は飢えて死んだり、病気になって死んだりした。気まぐれにいくらか世話をやいてもらえ、育った子供も、すぐに渡りの民に売られてしまった。
 クス・シイが覚えている兄弟は、兄と姉と、そしてクス・シイの双子の弟だけだ。
 ある日、両親がまた、子供達の誰かを売ろうと決めた。
「あいつを売ればいいよ」
 兄が、クス・シイを指差して言った。
「あいつは口ばかり達者な役立たずだ」
 と。
「そうだね。僕は役立たずだ」
 クス・シイは言った。
「だから、兄さんを売ればいいよ。役立たずな僕と違って、体も頑丈でいくらでも働ける。きっと良い値がつくさ」
 と。
 両親はクス・シイの意見を聞き入れて、兄を売った。
 しばらくして、両親は再び子供を一人売ろうと決めた。
「あの子がいいわ」
 姉が、クス・シイを指差して言った。
「あの子は狡くて悪知恵ばかり働く、いらない子よ」
 と。
「そうだね。僕はいらない子だ」
 クス・シイは言った。
「だからきっと誰も僕を欲しがらないさ。その点、姉さんは美人だから皆欲しがるよ。売るなら姉さんがいいんじゃないかな」
 と。
 両親は今度もクス・シイの意見を聞き入れて、姉を売った。
 そしてしばらくして、両親はまた、子供を一人売ることにした。
 残っていたのは、二人の子供だけだった。
「僕を売ればいいよ」
 クス・シイは言った。
「弟は体が弱いから、きっと良い値はつかないよ」
 と。
 クス・シイは、意地悪な兄と姉のことは嫌いだったが、双子の弟のことは好きだった。だから、そう言ったのだ。
 しかし、今度は両親はクス・シイの意見を聞き入れなかった。
 両親は売られていった兄や姉と違って、クス・シイのことを従順で気が利く、役に立つ子だと思っていた。
 クス・シイの双子の弟は売られていった。
 それからしばらくしてクス・シイは、両親の目を盗んで曇る土地を束ねる集長に会いに行った。そして自分の両親が、西の祭祀場から様々な祭具を盗んでいることを密告した。
 両親は罰せられ、曇る土地の人々によって奴隷へと落とされ、遠くの地へ売られていった。
 クス・シイは密告料として、一振りの美しい剣を貰った。
 クス・シイは剣と交換に、弟を買い戻そうとした。しかしすでに手遅れだった。
 弟は死んでいた。体の弱い弟は、売られていった地の風土に耐えられなかったのだ。
 クス・シイは弟の亡骸を引き取り、家の裏の木の下に穴を掘って、埋めた。表情一つ変えず黙々と作業を終え、家に戻り、誰もいない家の中を見て、ようやく泣き出したのだった。

二つ月の神話 二(20)

 雛鳥は、水面から顔を出した。
「雛鳥!」
 クス・シイは雛鳥を水から引き上げて、ゴホゴホと咳き込む雛鳥に手を貸した。
「こんなに澄んだ水なのに、飛び込んだ雛鳥の姿が全く見えなくなったからびっくりしたよ。それに何だか急に天気も悪くなってきたし…。とにかく、コダマの所に戻ろう」
 山の中を再び歩く内に、雨が降り出してきた。コダマが迎えに来てくれたのでその背に二人で乗った。
 辿り着いたのは崖の上から突き出した大岩の下の岩陰で、そこなら雨宿りできそうだった。
「神に会えたわ」
 今まで黙っていた雛鳥が、ふいにそう言った。
「それで…?無事だってことは戦ってはいないんだよね?何か話せた?例えば僕の名前のこととか…」
 クス・シイの言葉を無視して雛鳥は言った。
「神に会って、ようやくわかったの。私の役目が何だったかを」
 クス・シイが、はっとした顔で雛鳥を見た。
「曇る土地の民として、私が果たさなきゃいけない役目は神への復讐じゃなかった。遅すぎるけど、でも気が付いた以上は役目を果たさなきゃ」
「まさか曇る土地の人々の所へ戻るの?君を殺そうとしたー」
「あなたは私が生け贄だって知ってたの?」
 雛鳥の問いに、クス・シイはばつが悪そうに目をそらしたが、すぐに雛鳥の目を真っ直ぐ見て言った。
「うん、知ってたよ。だって君の着ている巫女装束。君が神じゃないのだとしたら、神に会いに行く者、つまり生け贄が着る服だ」
 そして怒った顔をして、
「凪だってすぐに気付いたはずさ。だからずっとヒヤヒヤしてたんだ。今までそうしてたように、凪が君を曇る土地の人々に売り渡すんじゃないかって心配だった」
 そう言った。
「…凪は、それは昔の話だと言っていたわ」
「昔の話なもんか。僕の兄さんも、姉さんも、そして弟も、両親だって、みんな渡りの民によって遠くへ売られて行ったんだ」
 クス・シイはそう言って、続けた。
「とにかく、渡りの民にも、曇る土地の人々にも、関わる必要はないよ。復讐は止めるんだろ?神はむしろ君を殺そうとした人達を、逆に殺してくれたってわかったんだから。復讐する理由なんてないもんな。ね、僕らなら、誰にも頼らなくても生きていけるさ。僕と、君と、コダマでさ」
「私は、曇る土地の民よ」
 雛鳥は言った。
「私は、渡りの民じゃないし、あなたやコダマの仲間でもない。曇る土地の、囲いの集落の人間なの。だから、曇る土地の人々が決めたのだったら、生け贄として役目を果たさなきゃいけない。果たさなきゃいけなかったのよ」
「馬鹿じゃないか?」
 クス・シイは言った。
「曇る土地の連中は君を仲間として見てなかった。だから君を生け贄にしようとしたんだろ。そんな連中を君は今でも仲間だって、そう思ってるって言うのかよ」
「あなたにはわからないわよ」
 雛鳥は言った。
「凪が言ってたわ。あなたは自分の両親を売った子だって」
 クス・シイは唇を一度グッと噛むと、言った。
「ああ、そうだよ。僕は自分の両親を売った。仕方がなかったのさ。僕の両親は、僕ら兄弟を売ろうとしてた。だから売られる前に僕が両親を売ったんだ。何がいけない?」
「私はあなたとは違う」
 雛鳥は言った。
「私はお母さんが好きだった。生まれ育った故郷が好きだった。故郷に伝わる神話や英雄譚が好きで、全部を誇りに思ってた。だからそれらが全て奪われた時、復讐を決めた。私という人間は、曇る土地の風土の中にあるの。それを失ったら私は私でなくなってしまう。私はあなたとは違う。自分の名前があって、誇りがあるの。あなたは両親が先に裏切ったから裏切ったのかもしれないけど、私は故郷に裏切られたとは思ってないわ。私が故郷を裏切ってしまったのよ。だから、もう裏切るわけにはいかない」
「そう」
 クス・シイは呟くように言った。
「確かに僕は自分の名前さえ自分でわからない奴だ。誇りなんてもの、わかるわけないさ」
「…さよなら」
 雛鳥は岩陰から出て、雨で煙る山の中へと歩いて行った。

二つ月の神話 二(19)

「私は、生け贄だったのね」
 雛鳥は言った。
 本当は、心のどこかで気が付いていたのだ。気が付いていて、見ないふりをしていた。
 雛鳥の母は、奴隷だった。生まれつき右足が不自由だった父は、嫁の来てがなく、渡りの民から奴隷の母を、自分の作った壺と交換に買ったのだった。
 父が亡くなり、母と雛鳥はそのまま囲いの集落に暮らすことになり、囲いの集落の人々も、雛鳥達をいったんは受け入れた。しかし大祭の復活が決まったとき、事情が変わった。
 雛鳥が「踊り子」に選ばれたのは、雛鳥が踊りが上手だったからではない。雛鳥が、奴隷の子だったからだ。
 曇る土地の人々は、「踊り子」にする為の奴隷を手に入れられなかったのだろう。凪は、渡りの民は今は奴隷の仲買をやっていないと言っていた。だから、雛鳥が選ばれた。
「私は、あの祭壇で踊った後、死ぬはずだったのね。でも死ななかった」
 雛鳥は言った。
「大祭のあの日、嵐によって洪水を起こしたのは、私が龍を見る目を持っていて、死ななかったからなの?だから私の代わりの生け贄として、囲いの集落を沈めたの?」
 雛鳥は、神に問うた。
「ねえ、答えて。私がちゃんと死んでいれば、囲いの集落の人々は…お母さんは、死なずにすんだの?だったらお願い、もう一度やり直させて。生け贄として、踊り子としてちゃんとやり遂げてみせるから、だから私のお母さんを、全てを元に戻して!」
 神は、雛鳥を慈しむように、また突き放すように言った。
「できないわ。だって私は神だから。神は上(かみ)。上にいなければいけない存在なの。だから地の底の死者の世界にいった者達のことは、どうにもできない。私の大切な小鳥も、地の底に落ちてしまって戻って来ないのよ」
 そして、少女のようにクスリと笑って言った。
「私の手の中に落ちてきた雛鳥。でもあなたは私の小鳥じゃないわ。だからあなたは好きな所へ飛んで行ける」
 社の周りを巡る龍達は、どんどん早くなっていった。雛鳥はその龍の渦の中に飲み込まれ、社から引き離され、社からあっという間に遠く離れていった。
 遠くから神の声が聞こえた。
「あなたがそうしたいのならば、そうしなさいー」

二つ月の神話 二(18)

 雛鳥とクス・シイとコダマは、双翁山の麓を何日もさ迷い続けた。

 不思議と食べ物にも枯れ木にも困らず、何かしら見つけて夕方には火をおこして調理をし、食べた。

 その内に、コダマが行きたがらない場所があることに気が付いた。
「きっとそこに天の湖があるんだわ」
 雛鳥はそう言い、コダマを置いて、歩いてその場所に向かうことにした。クス・シイも後に続いた。
 険しい山の中を歩き、前に進むと、木々が開けて、湖のある場所に辿り着いた。
「ここが天の湖?確かに美しいけど、でも誰もいないよ」
 クス・シイの言葉に答えずに、雛鳥は湖の前まで歩いて行った。そして、湖の縁に手を付いて、水面を覗き込んだ。
 水面には、見えなくなっていたはずの龍達が、群れを成す姿が映っていた。
 雛鳥は、湖の中に飛び込んだ。
「雛鳥!?」
 クス・シイの声を後ろに残して、雛鳥は湖面に映る空の中を飛ぶ、龍の背に掴まった。
 雛鳥は、龍に乗り湖の中の空を飛んだ。息が苦しいのは、水の中だからなのか、それとも空高くにいるからなのか。自分が昇っているのか、落ちているのか。雛鳥には分からなかった。
 息苦しさと、落ちている感覚から、雛鳥は大祭の日、崖から落ちたときのことを思い出していた。
 あの時、足を滑らせて落ちたのだと、そう思っていた。そう思い込もうとしていた。
 でも、本当は足を滑らせて落ちたのではない。突き落とされたのだ。
 雛鳥の後ろにいたのは、後ろにいたのはー
「お母さん」
 雛鳥はあの時、母に突き落とされて、崖から落ち、龍に乗って空へ昇ったのだった。
 気が付けば雛鳥は、龍に乗って雲の上、湖の底にいた。
 龍がゆっくりと巡るその中心の社に、雛鳥は降り立った。
 社の中から、神が現れた。
「やっと落ちてきたのね。私の手の中へ」
 雛鳥そっくりの顔をした神は言った。
 

 

二つ月の神話 二(17)

「凪は信用できない。ここを逃げ出しましょう」
 凪の天幕を出ると、雛鳥はクス・シイに会い、そう耳打ちした。
「でも、どうやって?昨日みたいに直ぐ馬で追いかけて来て連れ戻されるよ」
 クス・シイも声を落として、言った。
「だから、全部逃がすのよ」
 雛鳥は言った。
「だって、誰のものでもないんだから。でしょう?」

その日の夜、馬達を逃がした後、月明かりを頼りに、雛鳥達は逃げ出した。
 やがて馬がいなくなったことに気付いた渡りの民の人々が、馬泥棒だと騒ぎ始め、あちこちに散った馬達の足跡を追おうと躍起になっているのを尻目に、馬達が逃げて行かなかった方に、雛鳥達は逃げたのだった。
 辺りが明るくなりだした頃、蹄の音が聞こえてきた。
 渡りの民が追いかけて来たのかと警戒した雛鳥とクス・シイの前に現れたのは、コダマだった。
「コダマ!」
 クス・シイはコダマに抱きついて、
「僕に付いてきてくれたの?」
と言った。
「自分の意思で付いて来たのなら仕方ないわね」
 雛鳥は言った。
「コダマに乗って行きましょう。コダマは私達のものではないけど、仲間なんだから」
「調子いいなあ」
 クス・シイは雛鳥の言葉に呆れながらも、笑って言った。
「それで、どこへ行くの?」
クス・シイの問いに、雛鳥は答えた。
「天の湖よ」
「でも、君が前に空を飛んで行った時はその神に会えなかったんだろ?それに梟神にコテンパンにされたって…」
「多分、今度は会えるわ」
クス・シイに雛鳥は言った。
「昨晩、水瓶の水の中に神を見たの。確かに私と目が合った。神は、私を待っている」
「空を飛んでいくの?」
「冬になってから龍の姿が見えなくなったの。だから空は飛べない。でもきっと辿り着ける筈。天に近い高い場所に行けば…」

「それじゃあ双翁山だね。山登りは危険だけどコダマがいれば何とかなるかも」

 雛鳥とクス・シイは、コダマに乗って駆けながら、目敏く雪の下から顔を出し始めた山菜を見つけては、止まって籠に入れていった。
 日が暮れる前に眠れそうな場所を探し、火起こし器を使って二人がかりで火を起こした。一人でやるよりも、ずっと簡単に火を点けることができた。
 川で水を汲み、ついでにサワガニも捕まえて、鍋に山菜と一緒に入れて、食べた。
 そんな風にして何日も過ごした。

 春の兆しが見え始めていたが、見えない龍は相変わらず見えなかった。
 嵐の前の静けさのように、姿を消してしまった。