二つ月の神話 二(16)

 翌朝、慌ただしい朝の仕事を終えてから、雛鳥は凪のいる天幕に入った。
「水瓶を割ってしまったそうだね」
 雛鳥の顔を見るなり、凪が言った。
「ごめんなさい。でももう片付けたし、それにあれは、私のものよ。元々私の父が作った、母への贈り物なんだから…」
「へえ?」
 凪は面白そうに片眉を上げて言った。
「だとしたら、なぜあの水瓶はここにあったのかな?」
 雛鳥は黙り込んだ。
「まあ良い。怪我が無くて良かったよ。君はこの冬我らと同じ火で炊かれたものを食べてきた。大切な仲間だ」
「仲間?奴隷ではないの」
 雛鳥が言った。
「クス・シイはそう言っていたわ」
 凪は眉を寄せた。
「…確かに渡りの民は、その昔奴隷の仲買をしていた。だがもう昔の話だ」
凪は言った。
「前にも言っただろう。我々は見えない龍に乗って海を渡りたい。その為には君の力が必要なんだ。君を奴隷として売ったりなどするものか」
「じゃあ、クス・シイはどうなの?あの子は元々渡りの民ではないのでしょう?どうしてあの子をここに留めているの?自分の名前すらあやふやなあの子は、仲間でも奴隷でもないとしたら、何者なの?」
 雛鳥の問いに、凪は、息を一つ吐いて言った。
「…あれは、自分の両親を売った子供だ」
そして凪は、
「とにかく、あれの言うことは信じるな」
「あの子のいうことを信じていないなら、あなたは私が見えない龍を見れるということも信じていない筈よ」

「参ったな。私が見えない龍を信じていないというんだね?」

「大波は偉大な男だった」

 唐突に凪はそう言った。

「大波は見えない龍を信じていたし、大勢の人に信じさせた。強引な所もあったし敵も多かったが、誰も彼を無視することはできない、そんな男だった」

「私は大波のようにはなれない。だが雛鳥、君はなれる。クス・シイを信じさせた君なら」

二つ月の神話 二(15)

 雛鳥は再びクス・シイの背に掴まり、コダマに乗って渡りの民の野営地へと帰った。
「どうして遠出しちゃいけなかったんだろう」
 龍の子から降りる時、雛鳥がそう呟くと、「そりゃあそうさ」
 クス・シイは言った。
「僕らは奴隷だもの。気が付いてなかったの?」
 クス・シイは皮肉気に口端を曲げた。
「どう言う意味?」
 雛鳥が驚いて尋ねると、
「そのままの意味さ。渡りの民は奴隷の仲買人をしてるんだ。龍の子を使って、西の地の民と、曇る土地の民の間を行き来してね。曇る土地の民が渡りの民を蔑んでいるのはその為さ」
 日が暮れようとしていた。
 凪は、
「龍の子を勝手に走らせてはいけない。それがここの決まりだ」
 と言って、話したそうにしている雛鳥を制して、
「とにかく、今日は食事を取って、もう寝なさい。また明日話そう」
 そう言って休みに言ってしまった。
 雛鳥も渋々それに従い、休むことにした。
 夜。ふいに目が覚めてしまった雛鳥は、水が飲みたくなって戸口の水瓶の所へ歩いた。
 今夜は満月で、水瓶の水の中に月の光が落ちていた。
 側面に沢山の空を飛ぶ龍が描かれたその大きな水瓶の中を、雛鳥は覗いた。
 その水面には、あの天の神の顔が映っていた。
 雛鳥は、その水瓶を力一杯に突飛ばし、水瓶は転がって割れていた。
 神の姿はもうどこにもなかった。

二つ月の神話 二(14)

「雛鳥、ちょっと遠出しない?」
 クス・シイが雛鳥にそう言ってきたのは、寒さがいくらか弱まり、雪が溶け始めた頃だった。
 クス・シイは、コダマ、という名の龍の子にひらりと乗ると、未だに一人では龍の子に乗れない雛鳥に手を差し伸べた。
「乗れよ」
 常にない、自信に満ち溢れたクス・シイの態度に、雛鳥は思わず吹き出し、何だか酷く面白い気持ちになってクス・シイの手を握った。
 クス・シイと雛鳥は、コダマに乗って西の草原を駆けた。
「まるで空を飛んでるみたい!」
 雛鳥が言うと、クス・シイが笑った。
 そして更に速度を上げて言った。
「こいつに乗って走ってるとさ、生きてるって気がするんだ!」
 コダマはどんどん速度を増し、どこまでも駆けて行く。
「どこまで行くの?」
 流石に不安になって雛鳥は聞いた。渡りの民の野営地から遠くへ来すぎていた。
「どこまでもだよ。だって僕らは逃げてるんだから」
 クス・シイのその言葉に雛鳥は眉を寄せた。
「逃げる?どういうことなの」
 雛鳥がそう言った時、後ろから蹄の音が聞こえてきた。
 ぐんぐん近付いて来たそれは凪の乗った龍の子で、さっき速度を出しすぎてすっかり疲れてしまっていたコダマは、簡単に追い付かれてしまった。
「降りろ」
そう言った凪は、普段の穏やかな様子が嘘のような剣幕で、クス・シイも諦めてコダマを止め、降りた。雛鳥もそれに続く。
 凪もまた龍の子から降りると、黙ってクス・シイの前まで歩み寄り、その顔を平手で打った。
「何度も言わせるな。勝手に龍の子を走らせて野営地から離れるな。この龍の子はお前のものじゃないんだぞ」
 凪はそう言って、今度は雛鳥の方を向き、
「さあ、帰るぞ。ともかく帰って話そう」
 そう言った。
「ああ、僕のものじゃないさ。誰のものでもないはずなんだ」
 クス・シイが頬を押さえながら、小さくそう呟くのが、雛鳥の耳には聞こえた。

 

二つ月の神話 二(13)

 雛鳥は、小波から渡りの民の言い伝えについて聞いた。
 渡りの民は、昔は船に乗って、見えない龍の力で海を渡り、あちこちの島や陸を繋ぐ交易をしていたらしい。
 しかし、ある時見えない龍が荒れ、嵐が起きてこの地に流された。この地の周りの海は見えない龍の動きが複雑で、とても海を渡れない。
 そんな訳で、一緒に船に乗っていた龍の子らと共に、ここに暮らし始めたのだという。
 しかし、曇る土地がそうであるようにこの西の土地も災害が頻発し、どんどん住みづらくなっている。数年前、海を渡ってこの地を去ろうという話が渡りの民の間で出た。元々この地は自分達の故郷ではないし、元の自分達の地を探そう、と。
 しかし災害が増えるのと同じく、海もまた荒れやすくなっており、見えない龍の流れは全く読めない。
 しまいには、強硬に海を目指そうとする者達と留まるべきだという者達が争うことになり、渡りの民は二分された。
 強硬に海を目指す一派の中には当時の長だった小波の父、大波がいた。
 大波達は、留まるべきだという一派と別れを告げて、海へ出て行った。
 そして数日後、バラバラになった大波達の船と亡骸が海岸のあちこちに見つかったのだった。
 

二つ月の神話 二(12)

「凪を信じちゃいけない」
 凪との話を終えて天幕から出てきた雛鳥に、クス・シイが言った。
 そして雛鳥が言葉を返す前に、その場を去った。
 後から出てきた小波が雛鳥に言った。
「どうしたんだい?」
「何でもないわ」
 雛鳥は答えた。
 それから雛鳥は、冬の間を渡りの民の人々と暮らすことになった。
「直ぐに返事をする必要はない。どのみち神と戦うにしても春になってからだろう?冬の間は我々と過ごすと良いよ」
 凪がそう言ったので、その言葉に従ったのだ。
 渡りの民はまもなく冬の野営地に移り、雛鳥は狩りや様々な雑用を手伝ったり、剣を習ったりして過ごした。
 

二つ月の神話 二(11)

 天幕の中には、男が一人いた。雛鳥が想像していたよりもずっと若かったが、それでもすぐにその男が長だとわかった。雛鳥を見て、曇る土地の集落の長達がするのと同じような笑みを向けたからだ。
「凪、新しい仲間を連れてきたよ。えーっと、あんた、名前はなんて言ったっけ?」
 小波の言葉に、凪、という名前らしい若い長は、やれやれ、という風に溜め息を付き、しかし小波の突拍子のなさには慣れているのか、言葉を飲み込むようにして笑みを作った顔で、雛鳥を見つめた。
「私は、雛鳥」
 凪に目で促されるままに、雛鳥は答えた。
「私は凪だ。この一族の長をやっている。知らせは受けている。狩りの手伝いをしてくれたんだってね」
 凪はそう言って雛鳥の持つ剣に目をやった。
「何でも珍しい剣を持っているんだとか。ちょっと見せて貰ってもいいかな?」
「この剣は私のものよ」
 雛鳥は剣を握りしめて言った。
 凪は雛鳥の反応に、面白そうに片眉を上げ、微笑みを崩さずに言った。
「勿論、君の剣だ。奪ったりはしない。君が私を信用できないのであれば無理にとは言わないよ」
 雛鳥は、警戒しながらも凪に剣を渡した。
「ほお、鉄で出来た剣か。これは凄い。きっと海を渡ってきたんだろうね。…我が一族と同じように」
 凪はそう言って繁々と剣を見た後、雛鳥に返した。
「とても珍しいものを見せてくれてありがとう。良ければ、この剣をどうして手に入れたのか、教えてくれないか?」
「それは、曇る土地の大祭で使われるはずだった剣です。私は大祭の踊り子でした。」
 雛鳥はそうして話し始めた。大祭のこと。災害を起こした神を見たこと。神の起こした災害によって全てを失ったこと。神に復讐を誓ったこと。
「実はあなたにお願いがあるのです。あなた方渡りの民は神を恐れないと聞きました。私の復讐に手を貸してくれませんか」
「確かに我ら渡りの民は君たち曇る土地の神々を恐れない。信じていないからね」
 凪は笑顔のまま言った。
「存在を信じていないものを恐れたりはしないだろう」
「では、私の話も信じてはくれないと?」
「そうは言わない。我らは君達の神々の存在は信じないが、見えない龍の存在は信じている。我ら渡りの民は、見えない龍に乗って海を渡り、この土地に来たのだから」
 凪は続けた。
「君の話を信じて、復讐に手を貸してもいいよ、雛鳥。その代わり、条件がある。我ら渡りの民の一員になってくれ。そして一緒に、見えない龍に乗って海を渡るんだ」

二つ月の神話 二(10)

「この生き物は何なの?」
 道すがら、雛鳥は小波に聞いてみた。「何だい、知らないのかい」
 小波は笑って言った。
「龍の子さ」
「龍…?」
 雛鳥は聞き返した。
「ああ。龍も知らないんだね。龍っていうのは、空を飛ぶ大きな蛇みたいなものだよ」
 それを聞いた雛鳥は呟いた。
「でも、全然似てないわ」
「まるで龍を見たことがあるように言うんだね」
 小波は面白そうに雛鳥を見て言った。
「あなたは龍を見たことはないの?」
「あるわけがない。龍は人間の目には見えないものなんだから」
 そう言って、小波は龍について説明してくれた。
「龍は、空の上、天の湖で生まれる。雷と共に落ちてきて、地上で暫く龍の子として生活する。その内成長した龍の子は走って走って、やがて風になって姿が見えなくなる。そうして大人の龍になるんだ」
 そんな話をしている内に、渡りの民の野営地に着き、雛鳥は小波によって長のいるという天幕に連れて行かれた。

二つ月の神話 二(9)

 森を歩いていると、悲鳴が聞こえた。
 声の聞こえた方へ行けば、クス・シイがいた。
 クス・シイは、熊に襲われていた。
 雛鳥は、何故だかその熊が、大祭の生け贄になるはずだった熊だとわかった。
 もう、首に縄は付けていないのに。
 雛鳥は、剣を振り上げて熊目掛けて走った。熊は雛鳥を見て、雛鳥の方に標的を変えた。
 雛鳥は咄嗟に見えない蛇の流れに乗った。すると、まるで奇跡のように熊の鋭い爪をかわして、熊の懐に入ることができた。雛鳥はそのまま躊躇いなく、熊の目に剣を突き刺した。
 熊が怯んで数歩下がった隙に、雛鳥はクス・シイの手を掴んで熊から離れた。
「かかれ!」
 突然、声がして、何本もの矢が熊に突き刺さった。
 熊が呻き声を上げてよろめく。
 現れたその男達は、奇妙な生き物に乗っていた。鹿に似ているが、鹿よりも大きく、毛も長い。男達は熊を取り囲むと、一斉に槍を突き刺した。
 熊が動かなくなるのを離れて見ていると、奇妙な生き物に乗った男の一人が、雛鳥の方に向かってきた。
 頭巾を被り、顔半分を埋めるほどの髭を生やした男は、男にしてはやけに高い声で雛鳥に話しかけた。
「助かったよ。私達の狩りを手伝ってくれて、ありがとう」
 そう言って男は、頭巾と共に髭を取り外した。男だと思っていたのは、若い女だった。髭だと見えたのは、動物の毛で作った首巻きだったらしい。
「あなた達の狩りなんて知らない。私はこの子を助けようとしただけよ」
 雛鳥は言った。
 女はクス・シイを見て、
「やあ、あんただったのか。こんな所に何でいるんだい。また逃げ出してきたのかい」
と言った。
「違うよ。狩りの手伝いをしようとしたんだ。本当だよ」
「ふうん、まあ言いけどさ」
 女はそう言うと、再び雛鳥に向き直った。
「私は小波。渡りの一族の者だ。改めて礼を言うよ。こいつを助けてくれてありがとう」
「あなた達は渡りの民なの?」
 雛鳥は小波を見上げて言った。
「お願い、私をあなた達の仲間にして」
 それを聞いた小波はハハッと笑うと
「ともかく乗りなよ。私達の野営地まで案内するからさ」
そう言った。
 雛鳥が、恐る恐るその奇妙な生き物に近づくと、小波が手を伸ばして引っ張り上げてくれた。クス・シイも、他の男が乗る奇妙な生き物の背に乗せて貰い、出発した。

二つ月の神話 二(8)

 曇る森を抜けた西の土地には渡りの民と呼ばれる人々が暮らしている、と雛鳥は聞いたことがあった。
「渡りの民は、神々を恐れない」
 曇る土地の人々は、そう言って渡りの民を嫌っていた。
 しかしだとすれば、今の雛鳥にとって最も頼りにするべき人々なのではないだろうか。
 どちらにせよ、今の雛鳥では神には勝てない。梟神を倒して神の下へとたどり着くことさえ出来ないのだ。
 暑い日々が終わり、山の木々が色づき初めていた。
 冬がやってくるまで、もう時間がない。
 雛鳥は、曇る土地を出て西へ行って見ることにした。

二つ月の神話 二(7)

 指は幸いにも動かせるようになり、雛鳥は名無し神の下を去ることにした。
「君は帰る場所が無いんだろう?好きなだけここにいればいいのに」
「でも、私は戦わなければいけない相手がいるの。傷も治ったし、行かなければならない」
「剣を持っていない君が戦うなんて出来るわけがない」
「どうして私が剣を持っていたことを知っているの?」
 雛鳥は言った。
「あなたが剣を隠したのね」
「あの剣は私の剣だ」
 名無し神は言った。
「あの剣は私の剣よ」
 雛鳥はそう言って、名無し神の下を立ち去った。
 名無し神が剣をどこに隠したかは確信があった。
 雛鳥は、西の祭祀場跡に向かった。
 かつて、曇る土地が今より多くの人が暮らし、今より多くの集落があった頃に使われていた祭祀場だ。しかし、様々な災害が起こり、曇る土地の人々は減り、祭祀も以前のようには続けられなくなった。
 剣は、組み立てられた石場の影に、捨てられたように落ちていた。
 雛鳥は、剣を拾うと、さらに西へ向かって歩き出した。