二つ月の神話 三(7)

 クス・シイは洞窟の中を歩いていた。
「おやおや」
 クス・シイの前にそう言って現れたのは、一人の老人だった。
「あなたは誰?」
 クス・シイは尋ねた。
「名前がない者だよ」
 老人は答えた。
「ここはどこ?」
 とクス・シイはまた尋ねた。
「ここは、皆がいつかは通る道だよ」
 老人は言った。
「私はずっとここを通りたかったのだけど、通れなかったんだ」
 老人は悲しそうに言った。
「まあ、どこまで行けるか、一緒に行こうか」
 老人の言葉に、クス・シイは頷いて一緒に歩き出した。
「何故名前がないの?」
 クス・シイは聞いた。
「名前を忘れたからだよ」
 老人はそう言って語り出した。
「昔々、私には父と母と兄弟達があった。父と母は子供達が好きではなかったので、誰にも名前はつけられなかった。
それで、私は一番仲の良い兄弟とお互いの名前をつけあった。
ある日、父と母は子供達を売ることに決めた。次々と兄弟達が売られていった。私の一番仲の良い兄弟も売られてしまった。次に売られるのは私だと思い、私は逆に両親を売ってしまおうと決めた。私は両親が盗みを働いていることを密告した。両親は捕まり、罰として奴隷に落とされ、遠くに売られていった。私は密告料として剣を貰い、家族のいなくなった家でたった一人、暮らした。やがて寂しくなり、仲の良かった兄弟を取り戻そうとしたが、その時には兄弟はもう死んでしまっていた。私の名前を呼ぶ者はいなくなったので、私は名前を忘れてしまった。
…もう、百年も昔の話だ」
 老人の話を聞く内に、クス・シイは青ざめていった。
「それはクスとシイの話だ」
 クス・シイは言った。
「ああ、そうだ」
 老人は言った。
「思い出した。私の名前はシイ。仲の良かった兄弟の名前はクスだった」
 老人は、クス・シイの方を見て、嬉しそうに言った。
「君は私の無くした名前を持ってきてくれたんだね。私は自分が誰か分からず、ずっとさ迷っていた。でもこれで兄弟の所へ行ける」
 老人がそう言って見やった洞窟の先には、人影があった。
 老人はその人影に向かって、真っ直ぐ進んでいった。
 いつの間にか老人は、老人ではなくなっていた。
 二人の少年、クスとシイは、手を取り合い、洞窟の奥に消えていった。
「待って!」
 クス・シイはそう言って二人を追いかけようとしたが、足元の石に躓いて転んでしまった。
 クス・シイが顔を上げた時には、辺りは真っ暗で、何も見えなくなっていた。
「僕の名前を持っていかないで」
 自分をクス・シイだと思っていた少年は、暗闇の中でそう言った。
「僕は一体誰なんだ」